箴言3章

3:1 わが子よ、私の教えを忘れるな。心に私の命令を保つようにせよ。

 これは、知恵の呼び掛けの続きです。それは、主の呼び掛けです。主は、信仰者を子として愛して語りかけられます。その求めるところは、主の命令を心に保つことです。これは、最も大切なことであり、はじめにしなければならないことです。イエス様が、身許に座るマリアに関して、マルタに証しされたように、どうしても必要な一つのことです。

3:2 長い日々と、いのちと平安の年月が、あなたに増し加えられるからだ。

 その理由は、長い日々と、命と、完全さの年月が増し加えられるからです。長い日々は、永遠の比喩です。いのちは、神と共に歩む命であり、報いとしての栄光を永遠の資産として受け継ぐこともいのちです。完全さは、神様が私たちを神のさまに変える働きです。神の御心を行うことでもたらされる完全さです。それは、命を豊かにします。最高の祝福なのです。

・「平安」→完全さ。なお、平安は人にとって尊いことですが、神の前に特に価値あるものとは言えません。

3:3 恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。

 →「恵みとまことは、ずっとあなたを捨てない。」神の御心を受け入れ、従うならば、神は、契約を徹底的に、真実をもって果たされます。それで、その教えを首に結び離さないのです。そして、心の板に書き記すのです。それを受け入れ、自分のものとすることを表しています。それがその人の行動基準となります。

・「恵み」→契約に対する忠誠。 

3:4 神と人の前に好意を得、聡明であれ。

 擬人化された知恵は、主ご自身のことで、その言葉を受け入れ、従うならば、神から好意を得て、人からも好意を得ます。

3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。

 主に依り頼む元は、心にあります。心を尽くして主に依り頼むのです。これは、自分に頼ることと対比されています。自分に頼ることは、主の権威と主権を無視し、自分を誇ることです。

3:6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。

 行く道のすべてにおいて、主を知るのです。知ることは、直接的な体験として知ることです。ですから、情報として知るだけでなく、実在の方としてその方を恐れ、信じ、信頼して歩むのです。この命令は、主をより頼むことと、主を恐れる命令の間に挟まれておかれています。

 主が道を真っ直ぐにされるからです。

3:7 自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ。

 今まで、知恵を持つことを命じられていましたが、ここでは、知恵ある者と考えるなと命じられています。「自分の目に」知恵ある者とするなということです。主の言葉を受け入れ、従う分別が働いていると考えるなと言うことです。その分別を持つことは良いことですが、自分を評価して、そのような者であるとするなということです。その分別があるならば、主を恐れ、悪から遠ざかるのです。実践して示せということです。

3:8 それは、あなたのからだに癒やしとなり、あなたの骨に潤いとなる。

 体の癒しは、からだの不健全な状態が除かれることを表しています。私たちの病も死も、主の主権によることです。ですから、癒されることは、霊的な比喩です。体は、あらゆる霊的な比喩になっています。目は信仰、耳は聞き従うこと、手は行い、足は歩み、また、内臓についても比喩があります。そのあらゆる点において健全にされます。それは、主を恐れるところから来ます。

 骨は、その人の持つ教えです。最終的な行動や判断の基準となります。骨に潤いがあることは、その教えの健全さを表しています。

3:9 あなたの財産で主をあがめよ。あなたのすべての収穫の初物で。

3:10 そうすれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる。

 財産として示されている物は、全ての収穫の初物です。それを捧げるならば、倉は、豊かさで満たされます。主が祝福されて、収穫がたくさん与えられることを表しています。倉は、その収穫を納める場所です。収穫の初物は、律法の規定による捧げ物です。今日、これは、自分自身を捧げることを表しています。もはや、肉によっては生きないのです。自分を捨て、十字架を負って(命を捨て)従うのです。御霊によって歩みます。そうすれば、豊かな実を結びます。真のいのちとしての永遠の報いを獲得するのです。

 石がめは、新しいぶどう酒であふれます。葡萄は、踏みつぶされて造られます。ぶどう酒は、自分を捨てることを表しています。それとともに、自分を捨てることによってもたらされる祝福を表しています。喜びであふれるのです。ガリラヤのカナで石がめに水を満たし、汲んだ時には、最良のぶどう酒となりました。そこでは、御言葉を受け入れ、自分を捨てることで、この上ない祝福に満ちることを表しています。

3:11 わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。

3:12 父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。

 主は、叱責されます。それは、子として愛しているからです。父が子を叱るのは、愛しているからです。それで、主の懲らしめを拒んではならないのです。その叱責を嫌わず、喜んで受け入れるべきなのです。

3:13 幸いなことよ、知恵を見出す人、英知をいただく人は。

 知恵を見出すことの尊さが強調されています。知恵は、神の御心を受け入れ従う分別です。そして、英知は、御心を行う分別です。

・「幸いなことよ」→幸いなるかな。感嘆詞。

3:14 知恵で得るものは金で得るものにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。

 知恵で得るものは、「銀」にまさり、その収穫は、黄金に勝ります。箴言では、価値の対比においては、直接的な価値の比較とともに、対比の対象が表すものがその価値の意味を表しています。知恵は、御言葉を受け入れ従う分別を表しています。そこから得られるものは、銀によって表される贖いすなわち、肉にはよらず御霊によって歩むことを表し、そのような尊い歩みが与えられるので、価値が遥かに優れているのです。

 その収穫は、金によって表される義の行いです。直接的には、金よりも尊いことが示されていますが、その価値は、義の実を結ぶからです。

3:15 知恵は真珠よりも尊く、あなたが喜ぶどんなものも、それと比べられない。

 知恵の価値に比べられる物はありません。真珠よりも価値があります。聖書では、真珠に優る宝はありません。

3:16 知恵の右の手には長寿があり、左の手には富と誉れがある。

 知恵によってもたらされるものは、長寿です。肉体の死は、神の主権に属することであり、敬虔な者でも早死にします。これは、比喩になっていて、永遠のいのちの比喩です。この祝福が永遠のものであることを表しています。左の手の富は、報いの豊かさを表しています。誉は、神からのものとして与えられます。これらは、永遠のいのちとしての報いを表します。神の言葉を受け入れ、従う分別の働くところにこの永遠の祝福があるのです。

3:17 知恵の道は楽しい道。その通り道はみな平安である。

 知恵の道は、御言葉を受け入れ従う歩みのことです。それは、神様の好意による祝福を表しています。その通り道は、みな完全さがあります。

・「たのしい」→ギリシア語の「恵み」。神が好意によって備えた祝福で、信仰によって獲得できる。

・「平安」→完全さ。御心を行うことでもたらされる完全さ。

3:18 知恵は、これを握りしめる者にはいのちの木。これをつかんでいる者は幸いである。

 知恵は、握りしめて話さない者にとって命の木です。それは、永遠の命の実を生らせる木のように、永遠の命をもたらします。知恵は、御言葉を受け入れ従う分別です。そこには、主と一つになって歩む歩みがあり、永遠の報いがあります。いずれも永遠の命を表しています。これを掴んでいる者は、祝福されています。

・「幸い」→祝福された。

3:19 主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。

 主の業自体が知恵によってなされました。この主は、御子のことです。父の計画の実現として地の基を定めました。その時、父の御心の実現としてこれを行われたのです。父の御心を受け入れ、従う分別によってこれを実行されました。

 英知は、御心を行う分別です。教え通りに行動する分別です。主は、父の御心のままに天を堅く立てられました。。

3:20 主の知識によって深淵は張り裂け、雲は露を滴らせる。

 深淵が分けられることは、例えば、葦の海を渡るときに起きました。それをするのは、主の知識によります。主の計画なのです。

 雲は、露を滴らせます。その露は、御言葉の比喩で、命をもたらします。

3:21 わが子よ、見失ってはならない。知性と思慮をよく見守れ。

 見失ってはならないもの。御心に関する知識としての知性と御心の知識に整合したその人の持つ教えです。

・「知性」→御心に関する知識。

・「思慮」→神の知識に整合した人の考え。その人の持つ教え。

3:22 それらは、たましいのいのちとなり、あなたの首に麗しさを添える。

 それらは、たましいの命になります。たましいは、神の言葉に従う座です。神の言葉に従って生きることで命を経験でます。また、永遠の命としての栄光を資産として受け継ぐのです。

 首は、従順の比喩です。教えを保つことが従順であり、首の麗しさとなります。神にとって喜ばしいのです。

3:23 こうして、安心して自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。

 安心して自分の道を歩むのは、足が躓かないからです。これは、文脈から霊的な歩みの躓きから守られることを言っています。

・「安心して」→安心、安全、信頼、信用。

3:24 横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは心地よい。

3:25 にわかに起こる恐怖に、悪しき者たちの来襲に、おびえるな。

3:26 主があなたの頼みであり、足が罠にかからないように、守ってくださるから。

 ここまでは、安心の説明です。横たわる時にも恐れがありません。休む時、眠りは心地よいのです。

 にわかに起こる恐怖におびえるなと言われています。悪しき者の来襲は、突然の出来事です。おびえるなと言われています。これは、主を頼るからです。主が守られるからです。

3:27 あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない。

 手に善を行う力があるとき、それを控えてはなりません。それを必要としている人に与えなければなりません。

3:28 あなたに物があるとき、隣人に向かって、「帰って、また来なさい。明日あげよう」と言うな。

 隣人が必要としているのがわかり、自分の手に物があるのであれば、それを先延ばししてはならないのです。今、必要を与えたらよいのです。

3:29 隣人が、あなたのそばで安心して住んでいるとき、その人に悪を企むな。

 隣人が人の隣で安心して住んでいるのは、その人を信用しているからです。そのような人に悪を企んではならないのです。

3:30 あなたに悪い仕打ちをしていないのなら、理由もなく人と争うな。

 悪い仕打ちを受けていないのに、理由もなく人と争ってはなりません。

3:31 暴虐を行う者を羨むな。彼の道をどれ一つ選ぶな。

 暴虐を行うものを妬んではなりません。自分も同じようにしようとしたり、仕返しをしたりしてはならないのです。彼らのしているようなことを何一つ真似してはならないのです。

3:32 (なぜならば)主は、曲がった者を忌み嫌い、直ぐな人と親しくされるからだ。

 その理由は、主は曲がった者を忌み嫌われるからです。直ぐな人と親しくしされます。

3:33 悪しき者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。

 悪しき者の家には、主の呪いがあります。正しい者は、主が祝福されます。

3:34 嘲る者を主は嘲り、へりくだった者には恵みを与えられる。

 嘲る者は、本質的には、主の言葉を嘲るのです。謙る者は、主の言葉を受け入れます。それで、主は、契約を忠誠をもって果たされるのです。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

3:35 知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥辱を高く掲げる。

 知恵のある者は、神の言葉を受け入れ従う分別のある人です。その人は、誉を受け継ぎます。主がそれを高く評価され、誉を与え、その祝福を受け継ぐのです。しかし、愚かな者は、誉ではなく、恥辱が与えられます。彼は、自分の肉のままに、神の言葉を受け入れず振る舞うのです。しかし、それは、恥辱を現すものになります。それを高く掲げるように、誰の目にも明らかになります。